その四・年の始めはかくれんぼ
後編 |
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翌朝、部屋に備え付けられているインターホンが鳴った。内線連絡のようだ。
「皆さん、そろそろ朝食の用意が出来ましたので、お目覚めになって下さいな」
その夫人の声に全員がのろのろと起きだし、男女交代で着替える。
陽太は泊まりの用意をしていなかったが、住之江が前もって勝手に彼の部屋から、正月らしい服を引っぱりだしてきていた。
「もう、大家さんとは顔なじみやからな、顔パスで鍵貸してくれたわ」と、笑顔で言う住之江の弁に彼は苦い顔をする。
そして、彼らは武松の案内でその広い座敷に入ると、その食卓に並んでいる伝統的なおせち料理と、美味しそうに湯気を立てる雑煮に驚嘆の声をあげる。
「凄いね〜! 伊達にこんな純和風な家を持ってないわけだ」と、吉岡がささっと最寄りの席に正座する。
それに続き、他の面々もおせちを覗き込みながら席に着く。
「やっぱおすましに焼いた角餅か〜……」と、珍しく住之江が不満のような声を漏らす。
「何を期待してたんだ?」
「ほら、ウチ出身が関西やから、雑煮は白ミソに丸餅やねん」
ああ、なるほど、と坂本が手を打った。「ウチは母親の実家が福井だったから赤ミソだったよ」
「俺は、雑煮には三つ葉よりゆずなんだが」と、波瀬は三つ葉を摘まみ上げながら言う。
陽太は、一人暮らし故に滅多に食べられない、手の掛かった料理をひたすら口に運んでいた。
そうして、雑煮とおせちで盛り上がっていると、不意に神野夫人がふすまを開いた。そして、ワゴンに載せられたテレビが持ち込まれてくる。
そのコンセントを繋ぐと、神野夫人はKWCの面々に向かって恭しく礼をした。恐縮して陽太達も礼を返す。
「申し訳ありません、皆様。主人は今朝も多忙ゆえ、皆様に会う事が出来ません。しかしビデオレターでの挨拶だけでも、ということなので、どうぞ、ご覧になって下さい」と、神野夫人は取り出したビデオをデッキの中にセットし、リモコンを操作してスタートする。
「なあ、陽太、人間似とると女の好みまで似てくるんかな?」と、住之江が夫人を見ながら隣にいた陽太に囁いた。
陽太は、真向かいに座っていた武松の隣に座る和泉に目をやりながら答えた。
「……かもしれないな。あまり歓迎したくないが」
武松がもう一人増える。そう考えただけで憂鬱になる。
そうしたやり取りの間にビデオが始まった。
画面には、この屋敷の庭らしき風景に一人の袴姿の初老の男性が立っていた。髪の毛には白髪が少し混じっているものの、少しこけた頬といい、厳つめの顔から発せられる雰囲気はまさに迫力そのものである。
その人物は真直ぐカメラを見据え、真直ぐ背中を伸ばして立っている。
「二〇〇四年元旦……武松、ならびにKWCの諸君。明けましておめでとう。もっとも私の年になると冥土の旅への一里塚と言うようになり、めでたいのか、めでたくないのか分からなくなるがな」
自嘲気味に笑い、上半身がアップで映るように彼はカメラに歩み寄る。
「元旦そうそう、来てもらって済まんな。どうしても、この和風な家を自慢したくてな」
それだけかい、という一同の心の中でのツッコミを見切ったように、神野教授は続けた。
「だがお前達にも都合というものがあろう、私の自慢話を聞かされるだけでは面白くはあるまい。では、来てよかったと心から私の招待に感謝するにはどうすればいいか。答えは簡単、お前達が得をすればいいのだ。
最も分かりやすい得といえば金銭だろう。そして正月の金銭といえばお年玉。しかし私は、ふと疑問に思う。KWCの面々の平均年齢は欠席者がいない限り、十九・八五七一四二八五七一四二以下繰り返し。果たしてお年玉などを貰う年齢だろうか。
だが、アルバイトをしているにしても学生である限り、経済能力が低いのも事実だ。お年玉を貰わなくなるのは、社会人になってからでいいのではないか、という考えもなくはない。お前たちは今、お年玉という経済慣習に関しては非常に曖昧な年頃なのだ」
(大学教授らしい口述だ)と、陽太は思った。そして、理論的思考をそのまま口にしているような物言いは、まさしく武松にそっくりだと言える。
そんな陽太の思考をよそに、神野教授は人差し指を立てて続けた。
「そこで、だ。ここで私は諸君に一つの提案をしたいと思う。ただお年玉を与えるだけではない、レクリエーションをして勝利した者がこの、お年玉を手にする事が出来るというのはどうだろうか!?」と、神野教授は熱っぽく説明しながら、懐に手を入れ、「お年玉」と、行書体で書かれたお年玉袋を取り出した。
そのお年玉袋に視線を向け、陽太は嘆息した。
(ノリで俺達にレクリエーションをやらせたがるのも一緒か……。それで俺達が困るのを傍観するつもりだな……。しかしこっちにも意地がある。五千円や一万円じゃ俺はこの話にはのらないぞ)
「そして、その額、何と七万円だ!」
その金額を聞いた瞬間、陽太の表情が固まった。
「もともと一人に一万円用意していたのだが、このゲームの勝者は一人! よって勝者は全七名分を独占できるというわけだ。そして何をやるのか……」
七万円、というお年玉という、子供相手の経済慣習にしては高額の賞金にほとんどの人間が固唾を飲んで次の言葉を待った。
「それは……『かくれんぼ』だっ!」
詰まるところ、こういう話だった。
神野教授がこの屋敷のどこかに隠れている。そしてそれを見つけだした者が賞金としてお年玉7万円を手にする事ができるという訳だ。
しかし昨夜の内に、この屋敷には、色々凝った仕掛けが施されているようだ、と分かっている。まさか、離れのあの仕掛けだけではあるまい。母屋にも、いたるところ全てにあのようなからくりが存在する事は、想像に難くない。
神野教授はこの屋敷を自慢する為に、陽太達を呼んだと言っていたが、おそらくこの屋敷に仕掛けられたからくりを見せたかったのだろう。そういう点で、このゲームは、神野教授にとって、一石二鳥、うってつけであると言えた。
「何や面白そうやな、陽太」
住之江が呑気に言って、隣に視線を送る。と、同時に目を丸くした。
「……陽太?」
彼の視線は、説明を続ける画面に向けられたまま微動だにしない。
「ななまんえん……ふふふふふふ……」と、口元だけが妖しげに微笑んでいた。
そして瞳が。
(燃えとる……陽太が巨人の○のように燃え盛っとる……っ!)
何かと物入りな年末、しかも大学が冬期休暇に入った後、KWCで合宿にも行き、現在、陽太の家計は火の車である。最近は食事も、自動的にダイエット中のような量になってしまっている。
しかし七万円もあれば、完全に余裕が生まれる。
(人間らしい生活が約束されるんだ……!)と、陽太は拳を握りしめた。
そうしているうちに神野教授は、説明を終えたようだった。
「では、これよりお年玉争奪かくれんぼ大会の開催を宣言する。合図と共に各自スタートするように」
そして神野教授は画面から消え、代わりに大きく数字が映る。
「3」「2」「1」
そして笛の音が鳴り響き、武松と和泉を除いた全員がこの部屋から急ぎ足で出て行った。
「あなたは参加しませんの?」
「私は神野教授に手伝いを頼まれたのでね。このかくれんぼの答えを知っているのだ。よって私は参加資格を持っていない。精々、傍観させてもらうよ」
「賞金七万円か〜、何に使おうかな〜」
取らぬ狸の皮算用をしているのは、吉岡だった。
「どっか旅行に行くのもいいね。伊豆〜、熱海〜、伊東〜」
何故か温泉地ばかりである。
吉岡は、取り敢えず応接間を訪れていた。何故かと言うと、玄関に近いからで、考えても仕方がない、端から調べて行こうと思ったからだ。
「下呂〜、鴨川〜」
取り敢えず入り口に立って、部屋の中を見回してみる。
当然だが畳敷きの和室。広さは十二畳と少々広めだ。部屋の真ん中には小さいが、高そうな木材で出来た机があり、それをはさんで向い合せに、これもまた高そうな座ぶとんを引いた座椅子が配置されていた。
壁には達筆過ぎて読めない書や、よく分からない水墨画の掛け軸が置かれていた。
(大学教授って、こんなに儲かるのかね〜)
質素な外見ながら、どれもこれもにお金が掛かっていそうなのを見て、吉岡は溜め息をついた。
そして彼女は部屋の中に歩をすすめる。左手に障子があり、向こうは縁側になっているらしい。
吉岡は何の気なしに障子に手をかけて開けた。その時、何か妙な手応えのようなものが彼女の手に伝わる。
障子を開いた瞬間、その向こうに見えた庭の一角から、吉岡目掛けて何かが飛来した。
ひゅっ
そんな音が咄嗟に身をずらして飛来物を避けた吉岡の耳に聞こえる。
恐る恐る、背後を振り返ってみると、彼女の真後ろの壁には、真っ黒な墨汁がべったりと張り付き、その下には、墨汁を詰めた小さな袋を矢じりとした矢が落ちていた。
(………何て危険な屋敷……)
その頃、坂本は神野教授の書斎に来ていた。流石に大学教授の書斎で、四方の壁と言う壁、出来得る限りのスペースに本棚が配置され、一般人は見ているだけで頭が重くなるくらいの雰囲気がある。
「大体、こういう展開って本棚の後ろとかに隠し通路とかあるんだよね〜」と、本棚を一つ一つ調べて行く。
そのうちに一つだけ目立たないように、キャスターが埋め込み式に取り付けられている本棚を発見した。
坂本はにやりと、口元に笑みを浮かべるとその本棚を引っ張った。やはり本が満載の本棚だけあり、キャスター付きでも重かったが、ゴロゴロと、音を立ててずれて行く。
心無しか、引くごとに手応えが重くなっている気がするが、坂本は気にしなかった。
十分引いただろう、と坂本が、その後ろに隠されているものを見るために、本棚の後ろに回り込もうと手を離した瞬間、悲劇は起こった。
本棚はゴムを引いたのと同じように、離した瞬間に元の場所に戻ってしまったのである。
「ど、どうなってるのって、うわぁっ!」
坂本は、本棚が戻ると同時に落ちてきた袋の中身を思いっきり引っ被ってしまった。水のようだが、少し香が違う。それを確かめた坂本は思わず嘆いた。
「……ひどい……」
墨汁だった。
そして陽太が訪れているのは、神野家の風呂場である。湯舟が檜で出来た、豪勢な造りで、大人の男性でもゆっくりと足をのばせる広さはある。これに毎日湯を張るとなると、水道代はさぞ高いに違いない。
「お〜、檜風呂! さすがに日本家屋や、露天やないのが残念やけどなぁ」
何故か、と問うまでもなく、住之江も陽太に付き添っていた。本人曰く、別にお金はいらないから陽太について行きたいと言ったのだ。
(相変わらず、行動原理の分からない奴だ)
住之江は、金に頓着しないタイプではない。「ナニワやないけど商人やもん」が口癖で、買い物をする時によく値切る。おまけに学内で生徒相手に小額専門の金貸業も営んでいるらしい。
ちなみに、こうして七万円に固執している陽太は、単に貧乏性なだけだ。
現在、湯舟は木製のフタに覆われており、中は見えない。中を覗いてみても、中にこもっていた檜の香が彼らの鼻を刺激するだけだ。
(まあ湯を張るところだからな、下手に仕掛けは作れないだろう)
失敗したらそこから張った湯が漏れてしまうからだ。
(仕掛けがあるとすれば……)
陽太は見事な板張りの壁に目をやった。それぞれ板を一枚一枚叩きつつ、調べて行く。その内、叩いた時の音が違うのを発見した。
「この向こうに部屋があるな……。住之江、取っ手か何かがないか、探してくれ」
風呂場付近を捜索すると、沸かした湯をかき混ぜるための棒の柄に、鈎が付いているのを発見した。
壁には小さな穴が一つ開いている。ここにこの棒の鉤を引っ掛けて開けるのだろう。
「こん中に教授がおるんかな?」
「さあ……、家中こんな仕掛けだらけだろうしな」と、答えながら陽太は、鈎を穴に引っ掛けて、棒を引っ張った。
がたん、という音がして、向こうへの入り口が開く。
その中は檜の香が一層強く、さらにその空気の湿度は、異常なまでに高い。しかし、陽太は、この環境をどう呼べばいいのかを知っていた。
「サウナだな」
今は機能していないので、温度までは高くない。
「ゴーカやなぁ、檜風呂にサウナって……ひえぇっ!?」と、住之江が中に歩を進めてみると、足元をにゅるりとした感触が襲い、思わず悲鳴めいた声を挙げた。
「どうかしたのか?」
「何か、足元通ったんやけど……」
部屋の中は暗過ぎて、それが何なのかまでは分からない。住之江は、直感的にではあるが知らない方がいいかもしれない、と思った。
しかし陽太が電灯の電源を見付けて、スイッチを入れる。明るい電灯が部屋内を照らし、その正体を明かしてしまう。
すらりとした身体、睨まれてもあまりいい気持ちのしない丸くて小さな目、ざらりとウロコに覆われた表皮、そして大きく裂けた口元からはちろちろと舌が出し入れされている。
蛇だった。
サウナの床一杯を無数の蛇が埋め尽くしていた。
「う……うわぁぁぁっっ!」
住之江が大声を挙げてサウナから飛び出した。陽太は、その蛇がただのニシキヘビであると、すぐに分かったので慌てる事はなかった。
しかし普通は驚くだろう。これを仕掛けた神野教授は、こういった悪戯を仕掛けるのに長けているらしい。人間の恐怖と驚きの心理を、よく理解していると言える。
風呂場を飛び出した陽太と住之江が、廊下で出くわしたのは、全身ずぶ濡れになった波瀬だった。
「ど、どうしたんですか?」
「どうもこうもあるか! 台所を探してたら、落とし穴にハマっちまってよ、気が付いたら水の中。必死でもがいてたら、池に出ちまったんだよ」
どうやらその台所の落とし穴と、庭の池は繋がっているらしい。聞いただけで震えてくるような話だ。
その向こうからは、吉岡と、真っ黒な墨汁を被った坂本がやってきていた。
「台所、書斎、応接間、風呂場、それぞれ駄目、か……」と、陽太は指折り数えて言った。
目の前の机には、この家の見取り図が書かれている。
陽太達は一度休憩をとるために、食堂まで戻ってきていた。昼食時間でもあるので、まだ下げられていない、おせちをつつきながら作戦会議をしている。
波瀬は、着替えて、この部屋に備え付けられているストーブに当たりっぱなしだった。
「あと残ってるのは、寝室とか物置きくらいやな」
「僕はもう行かないからね」と、うんざりした様子で坂本が言う。彼もまた、すでに着替えていた。こんなハプニング満載のイベントがあるとは予想しなかったので、これ以上の着替えはもうないのだ。
「風呂場の事もあるし、隠し階段とかも含めれば、まだまだ探すところはあるんじゃない?」
「……なんか気ィ遠くなってきたなぁ」
今までの事を考えると、それぞれの部屋に必ず一つは罠が仕掛けられているだろう。
落とし穴や、隠しサウナは、元からこの家にあったのだろうが、墨汁や蛇は今日の為に神野教授によって用意されたものだろう。
今頃、それに引っ掛かった自分達を嘲笑っているのかもしれない。
(待てよ……?)
隠れながら、その様子を見る事ができるだろうか。
陽太も、小さい頃はかくれんぼをした事があるが、自分は隠れるより、鬼をやる方が好きだった。隠れてジッとしているのが退屈だったからだ。
ましてや今回の場合、鬼である自分達を引っ掛けるために、手間暇掛けて作った罠の数々がある。それに引っ掛かったところを見たいと思うのが人情ではないだろうか。
(ということは、教授は今、俺達を監視できる立場にあるわけだ)
どこかに監視カメラでも仕掛けられていて、どこか電器屋のようにテレビが並ぶ暗い部屋で、それを見ているのだろうか。
しかし、いくらこんな豪華な家を建てられる財力の持ち主とはいえ、こんな一時の悪戯の為に、そこまで金のかかる真似をやるだろうか。
(……やりかねないな。こんな家をたてるくらいだ)
それが問題である。
もしくは一カ所には留まらず、見付からないように移動しながら、自分達の様子を伺っているのかもしれない。
だが、見る対象はバラバラに散らばった五人である。流石に死角を縫うのは無理があるのではないだろうか。
だとしたら、どうやって神野教授は陽太達の目を逃れたのだろう。用心だけで果たしてここまでうまく行くかと言えば、大きな疑問になる。できるだけ見付からないようにするには絶対に見付からない自信になるような、そんな上手い手が必要だ。
(俺が教授の立場だったら……)
そもそもこんなイベントはやらない。
(……駄目だ、俺と教授では考え方が違い過ぎる)
しかしこれだけは言えた。家中に張られた仕掛けに目を奪われ、どこかの隠し部屋や、隠し階段など仕掛けの中に隠れているものと思われがちだが、教授はそんなところには隠れてはいない。
みんながそういう仕掛けを探すのだから、そんなところに隠れていようものならば見付かってしまう可能性は十分にある。仕掛けを陽動とし、実は間違いなく、その他の手段で確実に彼らの目から逃れているのだ。
(こうして行き詰まった時に必要なのは発想の転換だな……)
「お〜い、陽太ぁ、帰って来〜い」
ふと気が付くと、住之江が陽太の前で手を振っていた。考え事に夢中になって、すっかり無視してしまっていたらしい。
「ああ、スマン。何だ?」
「お雑煮お代わりいるかって、奥さん言うてんねんけど」と、住之江は自分の空になった雑煮の器を振ってみせた。
その向こうでは、神野夫人が、いくつかのお椀が載ったお盆を持ち上げてみせている。
「どうぞ、たくさんありますから御遠慮なさらずに」
「じゃ、お願いします」と、陽太も、自分のお椀を神野夫人の方に差し出した。神野夫人が上品に微笑んで、それを受け取ろうと手を伸ばす。
ふと、彼の頭に閃くようなものが走った。お椀に向かって伸ばされた神野夫人の手を、陽太の手が掴む。
「え?」と、少し虚を突かれた神野夫人に向かって陽太は言った。
「……ひょっとして、あなたが神野教授?」
不意を突くような陽太の質問に、全員が閉口した。
神野夫人は、しばらく沈黙した後、にっこりと陽太に笑いかけて言った。
「あら、何を仰ってますの?」
「いや、失礼。あなたの腕がこのように」陽太は、掴んだ神野夫人の腕の振り袖をまくりあげる。「不自然に太かったものですから」
毛は処理してあるものの、如何せん男性特有の腕の骨太さは丸わかりだった。服装で巧妙に隠してあるが、よく考えてみると肩幅も異様に広い気もするし、心持ち、顔も大きい。
その陽太の言葉が終わるか終わらないか、という時に、言い逃れは出来ないと思ったのか、神野夫人……に扮する神野教授は、陽太の手を振り切り、身を翻して逃げ出した。
「え?」と、予想外の神野教授の行動に目を丸くする。しかしながら反射的に手をだし、神野教授の後頭部の毛を掴んだ。
するとずるっ、という音と共に、神野教授の頭皮がずれたかと思うと、頭全体の皮が一枚、はがれるように、神野教授のビデオと同じ素顔が露になる。
『ああっ!』と、武松と和泉を除く全員が声を揃えて、神野教授を指差す。陽太は自分の手の中に残る特殊メイクの樹脂製のマスクを机の上に置くと、走り出す。
陽太と神野教授が走り去った食堂には、あまりの展開についていけず、唖然としたままのKWCの面々が残された。
「……結局、どういうことなの?」
その質問には、予め答えを知っていた武松が答えた。
「つまり、この屋敷中に仕掛けられた罠は単なる目くらましだった、という事だ。かくれんぼという遊戯は、オニであるものが、隠れたものを見付けたと認識した瞬間で勝負が決まる。今考えてみると、時間制減を決めない限り、隠れた者が勝つという結末は存在しないのが、かくれんぼの不条理だと思うのだがな。
それはさておき、普通はオニの視界に入れば、即ち見付かったという事になるのだが、神野教授の今回とった作戦の上手いところは、諸君の視野に入っても、それが神野教授であるとは認識されないため、見付かった事にならない、という点にある。
教授は夫人に変装する事で、皆の前に堂々と姿を現わしながら隠れていたのだよ。また、こうする事によって、自分で仕掛けた自慢の罠に引っ掛かる諸君らを見物する事ができる。
おそらく陽太君は、仕掛けに掛かる諸君らを見届けたいという教授の心理を見抜いていたのだろう。それに気が付いた時から、彼は教授が仕掛けのどれかに隠れているという仮定を捨てた。だからこそ、教授のあの見事な変装に気が付いたのだろうね」
長い説明で口が乾いたのか、そこで武松は茶を飲んだ。
そこで、ストーブの前で震えていた波瀬が質問した。
「じゃ、何であの教授は陽太君から逃げたんだ? これってかくれんぼだったよな?」
「この展開は教授から知らされていた予定にないので、これは憶測でしかないが……陽太君にとっては悲劇的な結末に終わるかもしれないな」と、武松は重そうに腰を上げた。「私はそれを見届けに行こうと思うが、誰か付いて来るかね?」
『え?』と、意外そうな顔をして聞き返す、KWCの面々を見て、武松は付け加える。
「別に来たくないのならば、ここで待っていても構わないのだが」
すると彼らは声を揃えて返した。
『何言ってんですか、こんな面白いもの、見逃す手はないでしょう!?』
KWCの一同の心は今、一つだ。
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その頃、陽太は何故か、着物の裾が乱れるのも気にせず、すり足気味に走って逃げる神野教授を小走りに追い掛けていた。
「教授、教授! 何で逃げるんですか!? これって鬼ごっこじゃなくてかくれんぼなんですよ。オニに見付かった時点でゲームは終わりなんです!」
陽太は一応、教授がかくれんぼのルールを勘違いしているものとして声を掛けていた。
「私は民俗学の教授だぞ。かくれんぼのルールを間違っとるようでは商売にならん!」
「では何故、逃げるんですか!?」
それには答えが帰ってこなかった。代わりに神野教授はピタリと足をとめると、不意に壁に手を伸ばした。
そこには巧妙に隠された小さな扉があり、その中にはレバーが収まっている。
「私は捕まるわけにはいかんのだっ!」
訳の分からない事を叫んで、神野教授はそのレバーを引いた。
すると、陽太の頭上から黒い液体(おそらく墨汁)が降ってくる。が、陽太は瞬間的に加速し、それを避けた。
「な、何するんですか、教授!? 大体何で墨汁!?」
「正月の罰ゲームは墨、と昔から決まっとろうが!」と、教授は答えたくない事柄以外は律儀に応えて、リビングの中に逃げ込む。
「墨は、筆に付けて書くものであって、頭から被るものじゃないでしょう!?」と、陽太も反論を唱えながら、陽太もリビングの中に飛び込んだ。
その瞬間、陽太の正面から黒い塊、墨汁を包んだ小さな袋が飛んできた。陽太はそれを体勢を崩し、わざと尻餅をつく事で回避した。
「陽太って、実は凄い反射神経の持ち主なんだね」と、それを遠巻きに見ていた吉岡が感心して言った。
「それは彼の奇運によって鍛えられた結果だろう」
武松の解説に、住之江が補足するように付け加えた。
「そういや、陽太って大学入ってからエラい危ない目に遭うてるしなぁ。上から植木鉢が落ちてきたり、居眠り運転の車に突っ込まれたり、年末までで、全部で二十三件もそういう目に遭うてるのに、一度も怪我とかせんかった」
「……それはいちいち調べたのか?」と、呆れたように呟いたのは波瀬である。
「教授、いくら俺でもあんまりしつこいとキレますよ。墨なんぞで汚れてもクリーニング代は出せないんですからね」
彼が飽く迄も問題とするのは、金銭面である。そんな彼の視線の先には窓から逃げ出そうとしている神野教授の姿があった。
「……君は、経済学部か?」
「文学部です」
陽太がしれっと答えつつ、威圧感たっぷりに、神野教授の方に歩み寄って行く。それに恐れをなしたのか、窓の外に飛び下りた。丁寧に飛び下りた後は窓を閉めて行く。
陽太が急いで、そのドアをあけると、ボン、という音と共に人頭大の丸いものが部屋に打ち込まれてきた。
「うわっ!?」
陽太は咄嗟にそれを腕でガードする。その丸いものの正体はドッジボールだった。これも仕掛けの一つらしい。その勢いはなかなかのもので、まともに顔面に当たっていたら、鼻骨が折れていたかもしれない。
彼はボールが当たった衝撃で、まだ痛む腕を降ろしながら、にやりと不敵に笑った。
そして、リビングの入り口から顔だけ出して様子を見ているKWCの面々のほうに目をやった。その目つきに異様な迫力がこもっていたので一同そろって身を固くする。と懲らしめてやることにします」
そういって、陽太は武松から借りたあるものを掴むと、開けたままにされていた窓から飛び下りて行った。
「信じられへん……陽太がキレた……」と、住之江が陽太の様子に、驚きを露にしている。
その言葉に武松も頷いた。
「ふむ、彼が本気になると、どういう事になるのか知る、よい機会だね」
陽太が飛び下りた窓のすぐ下には、スケートボードが置かれていた。そこに着地してしまった陽太は危うくひっくり返りそうになるところを、上手くバランスをとり、回避する。
ところが災難は終わらない、その先の壁にはトリモチがべったりと塗りたくられていた。陽太を乗せたスケートボードは容赦なく、その壁に向かって転がって行く。
「まだまだァ!」と、陽太は声を張り上げると、自分の乗っているスケートボードを蹴り上げて、トリモチの壁に押し付けて難を逃れた。
そして一段落したところで庭を見回す。すると玄関方面に神野教授の姿を見つける。
「ふふふ、なかなかやるようだな。武松君の話によると、有望な新人が入ったらしいが、お前が森水陽太だな?」
「何をアツくなっているのかは知らないですが、そろそろタチの悪い悪戯はやめてもらえませんかね?」
言葉遣いは、飽く迄も丁寧だが、その響きには何やら冷ややかなものが感じられる。
陽太はゆっくりと、神野教授に歩み寄っていく。そしていきなり走りに転じ、一気にその距離を詰めて行った。
「七万円、もらったぁぁ!」
「フフフ、私の勝ちだ、森水陽太!」
神野教授まで、あと数歩というところだった。陽太はある地点まで踏み込んだ時、いきなり地面が浮き上がった。彼の視点が反転し、全てが逆さまになる。
数瞬の後、彼は、傍らの木に自分が逆さ吊りになっている事を自覚した。
「どうだ、最もオーソドックスな罠の一つに引っ掛かった感想は?」と、勝者の笑みを浮かべて寄ってきた神野教授に向かって、陽太はにやりと笑い返した。
「罠に掛かったのは教授ですよ」
そう言って武松から借りたものを構えた。それはポラロイドタイプのカメラだった。そのシャッターを押すと、陽太は後ろに控えていた、住之江に放ってよこす。
住之江は出てきた写真を教授に向かって掲げてみせた。それを見て、神野教授の顔は真っ青になった。そこには着物を見事な着物を着付け、満面に笑みを浮かべる神野教授の姿が写っていた。
「『神野教授、女装癖か!?』……う〜ん、我ながら陳腐なタイトルですが、まあその辺は報道部に任せるとしましょう。因にこれはポラロイドですからね。合成であるという申し開きは出来ません。自分の格好を忘れたのが、あなたの敗因です」
「……えげつな〜」と、さすがの住之江も陽太のとった最後の手段に苦笑した。
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取り敢えず陽太は、負けを認めた神野教授によって、罠から降ろしてもらい、全員で食堂のほうに戻った。
「いやいや、森水陽太、お前には参った。完敗だ。つい悪戯が過ぎてしまったようだな」と、着物を脱ぎ、ちゃんとした袴に着替えた神野教授は陽太に玉露を注いでやっていた。
それを啜りながら、陽太は神野教授を睨み付けて言った。
「何なんですか、あのリビングのドッジボールは? 新年早々、鼻っ柱が折られるところだったじゃないですか」
「ああ、あれはちょっと威力が強過ぎたな。あんまりたくさん罠を作り過ぎたのでいくつか実験をするのを忘れてしまっていた」
はっはっは、と明るく笑い流す神野教授に、陽太及び、KWCの一同が呆れて溜め息を付く。
沈黙が一同を包んだ時、焦れたように吉岡が陽太の後ろを突いて催促した。
「陽太、早く聞いてよ」
陽太は一つ頷き、神野教授の方に改めて向き直って座る。この時、少しばかり神野教授との距離を詰めた。神野教授は反射的に縮まった距離の分だけ後ずさる。
「で、俺が一番聞きたい事なんですけど」
その一言で、神野教授は明らかにギクリと身体を反応させた。
「な、何だ?」
「どうして俺が教授を見付けた時に逃げてしまったのでしょうか?」
ずずい、と、陽太が神野教授に詰め寄る。
ずずい、と、神野教授が陽太から離れる。
また陽太が詰め寄ったところで、神野教授は観念したように答えた。
「……賞金のお年玉が払えなくなったんだ」
「……はい?」と、陽太は、呆気にとられたような表情を浮かべる。
「だから、こんな屋敷を買ったり、あっちこっちの仕掛けを作ったりでお金を掛け過ぎて本気で金がなくなってしまったんだ!」
陽太は、その言葉を必死で整理した。否、都合のいい解釈を見つけようとしていただけなのかもしれない。事実、神野教授が逃げ回っていた原因は薄々勘付いていたからだ。しかし事実は受け止めなければならない。
「つまり、こういう事ですか?」
陽太は万が一、否定される事を願いながら確認をとる。
「今日一日の為だけに、あなたは貯金を使い切るくらいお金を使ってしまったと?」
「そういう事だ。特にこの屋敷は構造上特注だからな。隠しサウナにはなしてあった蛇も結構したし、特殊メイクもえらく高いんだ。この後も墨汁で汚した家を業者に掃除してもらう事になっている。
途中でお金が足らなくなって賞金のお年玉に手を出してしまったのだが、まさか本気でバレるとは思っていなかったから、そのまま強行したんだが……」
「お金は、なんぼ掛けはったんですか?」と、これは住之江の質問だ。
「家が八千万、今日の為の仕掛けで、百万くらいは使った」
「……ちなみに、仕掛けとかを作るのにどれだけ時間を掛けました?」と、今度は武松が聞く。
「計画を考えるのには丸二年、屋敷の設計に一年、仕掛けを作るのにも一年掛かった」
そして最後に、陽太が聞いた。
「そう言えば、本物の奥さんは何処にいるんですか?」
「……今回の計画に呆れて、鎌倉の実家に帰ってしまった」
*****************************
結局、彼は賞金を辞退し、後日、陽太は神社にお参りし直した。今度は無病息災に加え、金運を祈り、何よりも『平穏』を願った。
だが彼は確信していた。KWCにいる限り、それは叶わぬものである事を。
(その4・年の始めはかくれんぼ 完)